気まぐれ日記 04年3月
04年2月はここ
3月3日(水)「お別れの会・・・の風さん」
ここのところ毎日帰宅が遅く、平日はメールチェックぐらいしかできない。
今日は、できれば午前中だけでも会社を休んで、行きたいところがあった。先日お亡くなりになった杉本健吉画伯の「お別れの会」があったからだ。やむをえず、ワイフに行ってきてもらった。
会場となった杉本美術館では、行列ができていて、遺影に手を合わせ、作品をざーと眺めるだけで1時間半もかかったそうである。出口では、記念にという意味で、笑顔の画伯の写真とメッセージの書かれたカードが配られていて、もらってきてくれた。カードの裏には、お雛様の絵が描いてあり、お嬢様の演出された「お別れの会」だけに3月3日が選ばれたのかな、と思った。いずれにせよ、画伯の一生は本当に良いお仕事をされたなあ、と今さらながらに感動する。
3月5日(金)「OmO教授、貴族の虜(とりこ)になる・・・の風さん」
火曜日と同様に、早朝から関東地方へ出張した。
午前中に1社訪問し、午後も1社訪問した。かなり頑張っているが、会社の仕事もなかなか厳しい。
仕事を終えて仲間と別れ、東京駅へ向かい、八重洲ブックセンターへ寄った。目的の本を2冊購入し、時代小説の棚をチェックすると、今回は、『怒濤逆巻くも』以外の3冊だけがあった。案外、拙著は回転しているようだ。
その後、常宿へチェックインし、新橋駅でOmO教授と合流。近くの和食レストランで夕食を食べながら歓談し、いよいよ彼を初めて貴族へ案内した。
貴族へ行くのは、今年、初めてである。
今日は、久美ちゃんと葉子ちゃんが相手をしてくれた。私がOmO教授を紹介し、彼が科学者であると認定した葉子ちゃんが、いきなり「先生。質問があります。あのう、「気」というものにも重力が作用しますかあ?」と切り出したので、めちゃくちゃ話が難解になり脱線しまくった。
いずれにせよ、OmO教授は満足したようだ。ふらつく足で都営浅草線改札口へ消えた。
3月6日(土)「横浜取材から長谷川伸先生の教え・・・の風さん」
約8時間の睡眠をとって、快調に起床した。
午前中は国会図書館である。これも今年初。やけに議事堂周辺の警戒がものものしかった。テロ対策なのだろう。テロなど起きては困るが、日本だけはテロと無縁で当然と思うべきではない。人類始まって以来、世界中どこかで常に戦争は起きていたし、飢餓や災害で大量に人は死んでいる。自然の猛威と同様、人類はまだ戦争行為に平和だけで立ち向かうことができない。
目的の4冊を書庫から出してもらい、2冊はコピーするなど目的を果たせたが、残り2冊は課題が残った。
1冊は、「欠ページ」があり、その部分が、ちょうど私の調べたい部分だった。「欠ページ」はカッターのようなもので切り取られた跡があり、腹が立った。あと1冊は、全ページが茶色に変色していて、酷使に耐えない状態だったからだろう、「禁複写」となっていて、コピーをとれなかった。非常に参考になる情報を多く含んだ図書だったので、残念である。次回、パソコンを持参して、必要な部分を書き写すしかない。
午後は、横浜へ移動した。
昨日から風が強く気温も低い。
JR関内駅から徒歩で横浜開港資料館へ向かった。元イギリス領事館の洒落た建物で、あちこちで見たことのある資料がたくさん展示してあった。そこから、また徒歩で、横浜市開港記念会館へ行き、ざっと屋内を眺め、続いて、神奈川県立歴史博物館へ向かった。ちょうど浮世絵展を開催中だったが、もう時間がなかったので、ミュージアム・ショップでお土産を購入した。
ここまででも、かなり異国情緒を感じることができた。神戸や長崎と同様、横浜も好きな町に加えたい。
徒歩でJR桜木町駅を抜け、横浜にぎわい座へ入った。長谷川伸生誕120年記念公演、五大路子「長谷川伸の心(なか)の女たち」があり、縁(ゆかり)の展示がされていることを知ったからである。
行ってみると、公演のチケットは既に「完売状態」で、展示だけ眺めてきた。長谷川先生の絶筆となった毎日新聞の随筆を読んで感動した。救急車で運ばれた病院で生死の境をさまよいながらも、何とかいったん帰宅できる状況になったとき、「たとえ生命がまだ続くとしても、自分はこれから良い仕事ができるだろうか。もしできないのなら、これ以上生きていても仕方ない。しかし、何となく、まだ自分は良い仕事ができるような気がする・・・」といったことが書いてあった。随筆のタイトルは、「死のうか生きようか」である。JR桜木町駅近くにある長谷川伸先生の文学碑には、次のような先生の言葉が彫り込まれている。「生きるとは生きる価値を見つけることだ」
3月7日(日)「どうも雑用ばかり・・・の風さん」
我が家の庭の梅がほぼ満開である。・・・が、今朝は天気予報通り小雪がぱらついたらしい。寒かった。
図書館から借りている参考資料がたくさんあり、その中の一部をコピーし、明後日返却日になっている分を返しに行ってきた。名古屋の某図書館である。
有料道路、高速道路を走って、現地では有料の駐車場を利用して、1時間ほどで処理を終えた。かかった費用が、それまでで1480円である。さすがに帰りは道路代にお金は払いたくなく、地べたを走って帰った。
夕食後、国会図書館で入手したコピーも含めてファイリングにとりかかったが、かなりの量があり、手こずった。
寝る前に、「別冊歴史読本」に掲載する原稿の初校ゲラがファックスで届いていたので、その返信をした。出版社からの指摘や質問はなく、当方からの訂正や注文もないので、「オッケーです」という回答だ。
3月8日(月)「作家か本屋か・・・の風さん」
今日も帰宅が11時近かった。これでは作家活動ができない。ピンチである。
フラフラで帰宅したら、「数学文化」に掲載する原稿の初校ゲラが届いていた。これはかなりの分量(全8ページで原稿用紙で20枚以上)があるので、手直しはちょっと大変である。しかし、今夜はもう時間がない。明日、できるだけ早く帰ってから手をつけよう。
今日、久しぶりに会社で『怒濤逆巻くも』が売れた。だめだ。このままでは作家でなく本屋になってしまう。
就寝は午前2時。
3月9日(火)「校正したゲラをファックスし終わったら・・・の風さん」
「数学文化」の初校ゲラの校正をしなければならないのに、今夜も10時過ぎに帰宅である。焦るう〜。
早々に夕食を摂り、入浴し、ワイフとビールを飲みながらリビングで校正を始めた。すると、要修正部分がわんさと出てきた。年初に書き上げた原稿なので、しばらく寝かせておくと、客観的に読めるし、間違いも発見しやすい・・・と言うより、出来が悪いということだ。
結局、赤のボールペンで書き込みを始めたのが零時過ぎで、それらのファックス送信が終わったのが、午前2時過ぎ。就寝は午前2時半である。もうフラフラ。でも、プロとしての達成感を感じるな。
3月10日(水)「知人の本が届いた・・・の風さん」
午前6時起床。つまり睡眠時間は3時間半である(こりゃ、死ぬな)。
今日は「交通事故0の日」で、勤務する製作所では街頭での交通安全立哨があり、私も参加した。幸い、陽気の良い朝だったので、外で立ちっぱなしではあるが、比較的楽だった。それでも、次々に出社してくる従業員の車を眺めていると、次第に目が回ってきた。そりゃそうだろう、あまりにも寝不足。
何とか、立哨を終えて、午前10時から診療所で血圧の検査を受け(問題なし)、薬をもらった。
それから、いったん退社して、自宅へ向かった。途中、夕べの校正ゲラを速達で投函した。
昼食後、再度自宅を出、電車で出張した。行き先は横浜である。
・・・。
帰宅は午後11時半になった。
事前通知通り、植松三十里(みどり)さんの『桑港(サンフランシスコ)にて』(新人物往来社 1900円税別)が届いていた。これは、第27回歴史文学賞受賞作品の上梓で、受賞から出版まで実に快調なスピードである。
3月12日(金)「初めての長浜は・・・の風さん」
睡眠不足では死なないらしく、時は無情に過ぎていく(何のことはない、11日のことはもう忘れた)。
今日は、滋賀県の長浜へ出張した。新幹線がのぞみ中心になったため、米原で停まる列車が減った。その結果、名古屋からは東海道本線で米原まで行き、それから北陸本線で長浜へ行った。時間的にはそれで十分だったのである。
長浜は初めてである。戦国時代絵巻の舞台になった地域であり、ゆっくり歩いてみたい気はするが、まだ手を出せる分野ではない。当面の仕事をしっかりやらねば。幕末である。
それでも、伊吹山を望む平野部、琵琶湖のほとりといった土地勘は感じることができた。
屋根の低い、古い町並みも懐かしい趣があった。
駅近くの中華料理屋で昼食を摂ったが、変わったメニューが多く、イタリアン焼きそばというのが人気だった。私は注文しなかったが、焼きそばの上に怪しげなミートソースが乗っていて、ちょっと〜という感じ。私は、味噌ラーメンと「暫(しばらく)」という名前の大判焼きを注文した。え? 本当に中華料理屋かって? はて?
出張ではあったが、仕事が終わった後、同僚が私を小説家であると紹介したため、図に乗って名刺を配りまくり、小説作法を開陳したのは言うまでもない(恥)。
帰りはタクシーで米原まで行き、そこから新幹線で名古屋へ帰った。酔っ払っていたので、朝読んでいた、鈴木輝一郎さんの『めんどうみてあげるね』(新潮文庫)の続きを読めなかった。輝一郎さんの原点を感じるブラックユーモアに富んだ短編集だ。
帰宅後、就寝まで、某図書館から借りていた本のコピーをとり続けた。
3月13日(土)「汗水流しても・・・の風さん」
最近出張が多いのに、実は、着られるスーツが乏しい状態だった。つまり体型の変化(太ったということ)と長年スーツを新調する必要のない業務環境だったからである。
名古屋へ出かけたついでにスーツを購入した。
私ぐらいの年齢になると、どんなデザインのものにしたら良いのか見当もつかない。デパートの売り場を見て歩くと、ほとんど若い人向きのものばかりである。新入社員の季節である。それに、購買層もオシャレな若者が多いのではないか。そうなると、一般向けの売り場でなく、ブランド物を扱っているブティックというかプレタポルテ、オートクチュールが無難ということになってしまう。しかし、金銭感覚のない風さんではあるが、値札を見ただけで絶句せざるを得なかった。
救ってくれたのは、デパート・オリジナル・ブランドの売り場だった。男性店員に「私ぐらいの年齢にも合うスーツはどれですか」と尋ねると、それなりにおとなしいデザインのものを勧めてくれた。
買い物は直感である。世界最適を追求しているわけではない。狭い範囲から選択するのであれば、直感だけを頼りにすればよい。上着を羽織ってみたら、とても軽くて着心地が良い。若者のように体にピチッとしたものではない。ズボンをはいてみると、これもゆったりしている。着心地と色柄の直感優先で決めた。値段は、有名ブランド商品のジャケット一着よりもかなり安い。
夕べ、深夜にコピーをとり続けていた本が、東京の古本屋でたった1500円で売られていることが分かった。150枚以上もコピーをとってしまったので、注文する気も失せた(くそ)。
今夜も、書斎の複写機でとったコピーをファイリングするのに2時間以上もかかった(汗)。
3月14日(日)「ファイリングに新兵器導入・・・の風さん」
寝坊しないように頑張って・・・それでも8時半起床。
今日こそは身辺整理を完了しようと頑張った。お陰で、ワイフと買い物に行くのも、トレーニングも断念した。
結果、かなりスッキリしてきたぞ。
さらに、今日は、ファイリングの新兵器を導入した。某ソフトである。紙ファイルのように様々のデータを扱えるスグレモノで、スキャナーから取り込んだデータなどのファイリングも得意らしい。うまくすれば、これまで貴重な参考資料をひたすらコピーしていた作業が、スキャナーに置き換わるかもしれない。
とりあえずインストールは終了した。徐々に作業しながら慣れていかなければならない。
3月15日(月)「新幹線での怪事件・・・の風さん」
月例の新鷹会の日だったが、午前中、東京で会社の仕事をした。日頃の超超超多忙状態からすれば、止むを得ない行動だった。
・・・と書き出したものの、話は少し前にさかのぼる。
今日は、のぞみで名古屋から品川まで乗ってきた。切符はインターネットで先週末に予約したものである。しかし、週明けの朝の新幹線はビジネス客でいっぱいで、ネット予約時点で窓際の席はなかった。とれたのは、3列席の通路側である。名古屋でその席についた時点で、右の二つの席は既に乗客が座っていた。二つとも黒っぽい服とズボンそして黒いカバンを持ったビジネスマン(どちらかというとまだかなり若い)に見えた。移動中は読書に充てようと決めていた私は、すぐに文庫を取り出し(この前の名鉄でも読み続けていた)、途中でコーヒーを買ったりしたが、ひたすら読書に専念していた。新横浜が近付いてきた時、窓際の男性が席を立ち、狭いところを通してあげなければならなかった。
品川が近付いてきて、隣のビジネスマンを荷物の片付けを始めた。ペットボトルを片付けたり、コートを引っ掛けたりしていた。そして、私より先に席を立ち、前をすり抜けて、通路からデッキへ出て立った。私も、移動時間が惜しくて、追いかけるように席を立ち、彼の後ろの男性のすぐ後ろに立った。
・・・と、さっきのビジネスマンを見るともなく見ると、赤茶色に染めた髪で、背は私よりやや低いぐらいで、横顔がややふっくらしている。じっと目を凝らすと、・・・あわわ、女性だった。
10日の出張の時、二人掛けの窓際に私は座った。通路側はかなり若い女性だった。恐らくビジネスウーマン。ところが、恐ろしいくらい香水の匂いがきつく、鼻がつんとなるほどだった。新横浜で同僚と合流したのだが、私の体から発する異様な匂いに気が付いたかもしれない。
今日は、全く、女性の気配すら感じさせない女性と隣り合わせたことになる。はて、良かったことかどうか。
3月17日(水)「最後の生き方に人の人としての価値を見るの巻」
出社すると電話があり、闘病中だった元上司が昨夜亡くなられたことを知った。
3年前の今ごろ、ようやく軟骨肉腫という病名がはっきりして、東京の病院に入院された。それから8ヶ月の闘病生活を経て、職場復帰したときは、右脚が不自由な状態だった。それでも、懸命の努力をされて、常人以上の激務に耐えた仕事ぶりだった。入院中に右脚の手術だけでなく、転移した肺の手術も受けたことを知っている私としては、そばで見ていて(無理しているのではないか)とハラハラすることも多かった。
昨年秋に、急に病状が進んで短期入院されたときは、既に痛みを緩和するだけの治療とも呼べない治療だけが施されている状態で、やはり、と思わないではいられなかった。しかし、最後の命を会社の職務に全うすると決意されたことが分かるだけに、仕事では一切の妥協のない接し方をさせてもらってきた。バカ正直な私には、それしかできなかった。恐らく、元上司には、私のそういう不器用な対応が分かっていたような気がする。
昨年の暮れごろには、奥様の運転する車で会社のビルの入り口まで送迎してもらい、たとえ1時間でも仕事して帰るお姿を拝見していた。(何もそこまで)と思う人もいるかもしれないが、ひたむきな生き方、勇気ある行動を理想とする私としては、感嘆せざるを得ない。
年明けに最後の入院生活に入り、二度と職場に戻れないと覚悟した時、かなり落ち込んで、他人との接触を拒んだ時期もあったが、最後は、やはり前向きの人らしく、積極的に見舞い客を受け入れて、最後の最後まで明るく振舞っておられた。
明日の本葬に参列する予定である。決して義理ではない。他人事でもない。心からご冥福をお祈りしたい。
元上司の享年は、私より一つ上の51歳である。合掌。
3月18日(木)「長編のテーマを変更・・・の風さん」
庭の木蓮が真っ盛りである。
本社の会議に直行した。午前中はいくつかの会議に出席し、昼食はコンビニでパンを買い、午後、元上司の葬儀に参列した。たくさんの参列者で、1時間半立ちっぱなしだったが、全く苦にはならなかった。焼香のときに会釈する私に奥様が気付いてくれて、なぜかホッとした。元気だった頃のにこやかな遺影を見つめながら、この方の生き方は作品にしなければならない、と強く思った。
最後のお別れということで、多くの方が棺に花を入れていたが、私にはできなかった。常に明るく前向きだった元上司の記憶は、元気な頃のままに留めておきたかったからだ。
夕方、勤務先の製作所に戻ったが、最前線はまさに戦場である。連発するトラブルは深くなるばかり。
また、帰宅が遅くなり、帰ってからメールチェックするのが精一杯だった。
3月19日(金)「疲労のピークか、爆睡の巻」
勤務先の製作所から午後本社へ出張し、会議が早く終わったので、そのまままっすぐ帰宅した。
7時前に帰宅したのは今年初めてかもしれない。
大野優凛子さんの新作が届いていた。『京都・宇治 浮舟の殺人』(実業之日本社 838円税別)。昨年、私が京都で講演をしている頃に書き上げた作品だと思う。主人公は女性刑事で、自分がかつて犯された犯人を殺した男が、15年後にその男が殺したのと同じ手口で殺されるという事件に遭遇する。強姦した犯人が殺されたことで、強姦された事実そのものを記憶から抹消していた女性刑事が、この事件を解決するために、封印してきた過去と再び向き合わねばならなくなったという、心理サスペンスである。着想は実に面白いし、私でも書いてみたいテーマである。この難しいテーマをどのように料理しているか、読むのが楽しみである。
夕食後、「やることがたくさんあるなあ」と呟きながらパソコンに向かったのだが、猛烈に睡魔が襲ってきて、フラフラとベッドに倒れこむと、そのまま爆睡してしまった。入浴はもちろん、着替えすらしていないままである。
3月20日(土)「大阪取材も敢行・・・の風さん」
実に11時間半の睡眠の後、起床した。
東京は終日雨だったらしい。兄貴夫婦が忙しい合間を縫ってディズニーランドへ出かけたのに、雨に降られ、その上、パレードまで中止だったとケータイメールをワイフに送ってきた。当地は、午後、暫時小雨が降っただけである。今年は花粉の飛散が少なく、さらに雨まで降れば、もう万全である。
一昨日の葬儀参列で、今度取り組む長編のテーマを変更することにしたため、当然、主人公も変更である。
しかし、当初の構想からそれほど激しく逸脱するものではないので、今日は、朝から、的を絞った資料整理に取り組んだ。賑やかな登場人物群の中で、主人公のドラマチックなストーリーが期待できる。
基本的に舞台は江戸になるが、大坂も関連が強い。
それで、来週、大阪取材を敢行することにした。会社の仕事は忙しいが、今度こそテーマを絞り込んだので、ここで勢いをつけねばならないからだ。
自宅でのコピーやスキャナーを利用した資料整理だけでは、すっきりしたファイリングができないので、夕方、コンビニへも出かけ、縮小コピー60枚をとってきた。
3月21日(日)「鳴海風1日主夫の巻」
なんだかんだと言っても、プライベートの時間はほとんど小説家として活動している。結果、自分の書斎はもとより身辺は雑然としたままで、とても他人には見せられない状態になっている。
昨日が彼岸だったということもあり、ワイフは実家におはぎを作りに出かけた。また、長男も友達から誘いの電話があって外出した。その長男が4月から高校に入学する予定なので(受験結果はまだ出ていないが)、長男の部屋のガラクタ類と夫婦の寝室のガラクタ類を整理することにした。昨年末の大掃除は、ほとんど適当にやっただけなので、今日はかなり気合が入った。
午前10時から開始して、とりあえず終了したのは午後6時である。当初の狙いの3分の1はできたと思う。あと二日あれば、かなり整理できるはずだ。しかし、その時間が取れるかどうか、今は自信がない。ま、いずれにせよ、次回は、ゴミ捨てである。まともに動作しなくなったステレオ類を中心に廃棄処分しなければならない。特に、レコードプレイヤーが壊れていて、ターンテーブルが回転しなくなっていたのは悲しかった。
夕食の時に「ご苦労さんビール」を飲んだら、かなり疲れを感じた。
実は、私は掃除とか洗い物、部屋の模様替え、整理整頓が大好きである。これで料理がまともにできたら、文句なしの主夫になれるだろう。
3月22日(月)「週が明ければ、また仕事・・・の風さん」
終日、小雨がぱらついた。週末は会社の仕事をほとんど忘れて、自分のことに没頭していたが、いったん会社に出ると、もうどっぷりと仕事の中に浸かってしまう。
帰宅したのは10時である。
先日『桑港にて』を出版したばかりの植松三十里さんから出版記念パーティーの案内が届いていた。すごい。翌日が新鷹会の勉強会の日なので、出ようかどうしようか、ちょっと迷っている。
京都大学附属図書館から原稿依頼がメールで届いていた。これは、昨年の思文閣美術館での講演内容を原稿にするもので、「数学文化」と重なる部分が多いが、いくらか趣を変えて提出しようと思う。
寝るまであまり時間がないので、夕食後、さっさとシャワーを浴びた。ここ数年、冬場は乾燥肌になり、放っておくとカサカサして痒くなる。老人化の一環だろう。今年は背中をやられていて、うるおいクリームをすりこむのだが、手が届かない。ちょうど中央部だ。そこを鏡に映してみると、白く毛羽立っている感じ。背中にヒビを切らせて、という表現があるが、まさにそれ。ああ、鳴海風も苦労してるんだあ・・・違った、単なる老化だった(笑)。
明日は、大阪へ取材に行くつもりだが、ちょっと天候が心配だな。
3月23日(火)「大阪取材(その1)・・・の風さん」
今朝、ふと目覚めて時計を見たとたん、1時間見間違えて、「いけねえ。寝坊した!」と蒲団を跳ね飛ばした。・・・が、まもなく正気に戻り、「またボケちまったぜ・・・」と再度蒲団をかぶって目をつぶった。
余裕しゃくしゃくで最寄の駅のホームに立った瞬間、先日デパートで購入したスーツの引換券を忘れたことに気付いた。せっかく名古屋まで出るのに・・・。さらに、ポケットを探るとハンカチも入っていない。忘れたのである。
ボケ風さんの1日は、こうして始まった。
10時過ぎに新大阪に到着した。
最初の目的地は、明和8年(1771)に豊後杵築藩から脱藩して大坂へ出てきた天文学者麻田剛立(ごうりゅう)の住居があった、本町4丁目である。地下鉄御堂筋線「本町駅」付近がそこで、昔の面影はほとんどない。とりあえず西本願寺津村別院(北御堂)と東本願寺難波別院(南御堂)をチェックした。どちらも、持参した享保4年(1719)、弘化2年(1845)の大坂絵図面に載っている。
続いて、麻田剛立の元へ通っていた弟子の間重富(しげとみ)が経営していた質店「十一屋(じゅういちや)」のあった、富田屋橋(とんだやばし)北詰に向かった。富田屋橋というくらいだから、昔は長堀川が流れていたところである。が、今は埋め立てられていて、ない。地下鉄四つ橋線「四ツ橋駅」で降りて、長堀通を西へ歩いた。弟子の家を探すので、本町4丁目から歩くのが正しい取材なのだが、ボケている風さんは、間違えて地下鉄に乗ってしまった。
昔の長堀川は道幅の広い長堀通になっていて、ちょっと不安だったが、驚くなかれ、中央分離帯の遊歩道の中に、目指す「間長涯天文観測の地」という石碑を発見した。ただ、そこはまだ整備中で侵入禁止だったが、私はフェンスをまたいで中へ侵入し、石碑の写真を撮ってきた。
そこまで確認したところで、お昼近くなったので、難波へ出て、ミーハーらしくお好み焼き屋でたらふく食べた。
3月24日(水)「大阪取材(その2)・・・の風さん」
昨日の続きを書いておこう。
午後は、天文学者で医者の麻田剛立のお墓がある浄春寺から。
地下鉄谷町線「四天王寺前駅」で降りた。
実は、23日は長男の高校受験の結果発表の日だった。気が付かなかったのだが、ワイフからケータイにメールが入っていて、第一志望校に合格したとのことだった。昨年夏ごろは偏差値50をやっと越えていたレベルだったのが、偏差値60近い高校に合格したのだから、まずまず頑張ったのだろう(私にはそうは見えなかったが)。その件でメールのやりとりを始めてしまったので、ちょっと取材のペースが落ちた。
浄春寺のある夕陽丘町は、江戸時代から現代に至るまで、非常にお寺の多い一帯である。現代の地図より江戸時代の絵図の方が、何となく雰囲気が出ているので、そっちをチェックしながら歩き回った。確かに、入り組んだ路地のそこかしこにお寺がある。しかも、起伏の多い所であり、坂もある。一つ一つの坂に名前がついているのもゆかしい。曹洞宗浄春寺の墓地に入ってしばらく探したら、白く特徴ある文字の刻まれた麻田剛立の墓がすぐ見つかった。周りのお墓には彼岸ということで、花が手向けられていたが、そこには何もなかった。
江戸時代の絵図にも出ている大江神社の横の急な坂道を下って、下寺町を通って、大きな通りに出た。角の花屋で、墓参用の花と線香を購入した。
今度は、一心寺の横から茶臼山を迂回し、広壮な宮殿風の建物つまり大阪市立美術館の前に出た。ちょうど日展を開催しているところだった。天王寺公園の敷地に沿って左回りに辿っていくと、ラブホテル街に迷い込んだ。休憩が2000円とある。安い・・・なんて感心している場合ではないか。
ラブホテル街を通り抜けないとたどり着けない所に、統国寺があった。間重富の墓のあるお寺だ。
場所を尋ねたので、すぐに見つかって、花と線香を手向けた。
再び、浄春寺に戻って、麻田剛立のお墓にも花と線香を手向けた。
ここまででだいぶ時間が経過してしまったので、疲れたこともあり、タクシーで次の目的地に向かうことにした。造幣局の造幣博物館である。無料だが、記名してバッジをつけて中に入らなければならない。
造幣博物館でのお目当ては、幕府天文方機械技師の家に生まれ、幕末には榎本武揚らとオランダまで留学し、明治維新にはここ造幣局で機械技師として働いた大野弥三郎規周(のりちか)が作った機械を見るためである。大時計と天秤そして貨幣計数機を見ることができた。
もう時間がなかったので、つぼみの膨らんだ桜並木の下をくぐって、外へ出、バスで大阪駅へ向かった。
いつもながら駆け足の取材で、足が棒になったが、麻田剛立、間重富、大野弥三郎の足跡に触れることで、彼らと会えたような気がした。
次の取材は、東京が中心となる。
3月25日(木)「たまった未読メールが700通を超えた・・・の風さん」
もう少し、大阪取材の最後の部分を書いておこう。
実は、造幣局でバスを待ったのだが、なかなかやってこなかった。そして、大阪駅で方向を見失ってタイムロスをしたため、座席指定券を買っておいた新大阪発ののぞみに間に合わなかった。こうなるとすぐ開き直ってしまう風さんなので、新大阪駅でしっかりお土産を選んで買ってから、ホームへ向かった。幸い新大阪発ののぞみがホームに滑り込んできて、ガラガラだったので、楽勝で座れた。
疲れきっていたが、ブラックコーヒーを2杯飲んだら元気が出た。
名古屋に着いてから、とりあえずデパートのスーツ売り場へ行き、引換券なしでも受け取れるか尋ねたら、オッケーだったので、目的を果たし、朝のボケを挽回できた。
これが、一昨日の最後の話である。
昨日は、再び会社の超多忙の世界にどっぷりと浸かってしまい、帰宅は10時。夕食を摂り、シャワーを浴びて、メールチェックしてさっさと寝た。
今朝は6時起床で、本社へ向かい・・・。
製作所へ戻る途中で、用事を二つこなした。それほど時間がたっているわけでもないのに、今日は、久しぶりに時間が止まったような気がした。席についてから、パソコンを立ち上げ、たまった未読メール(実は700通以上もある!)の山崩しに取り掛かった・・・が、焼け石に水。
明日はどうなることやら。
3月26日(金)「会社近況の巻」
あっという間に週末となった。週末だけでなく、月末も近付いている。やることは山のようにあるが、時間は限られている。久しぶりに会社で平穏な時間が過ぎた。平穏と言っても、予定が何もなかったのではなく、ほぼ予定していたことだけで1日が過ぎた、ということだ。午前も午後も会議があったし、夕方、部下3人との小面談も実施した。今年、新しい組織に組み込まれ、部下が40人ほどに増えたため、年初から時間を見つけて面談を始めた。それが、まだ終わらない。半分も終わっていない。その面談後、夜は、職場の飲み会となった。年度替わりで、人の出入りがあり、歓送迎会なのである。
飲み会ではウーロン茶だけにして、ミッシェルで帰宅した。飲み会の間も元気が出ず、帰宅してからエスプレッソを淹れて飲んだが、やはり元気が出なかった。
来月も東へ西へ遠距離出張がある。取材のための行動も必要だ。
50歳。輝く50代のためには、活発に動き回らなければならない。問題は、体がもつかどうか、だ。
3月27日(土)「PTAの次は自治会役員・・・の風さん」
ワイフに起こされた。正午を回っていた。「今日は、1時から自治会の役員会でしょ?」だって!?
11時間半も寝たのに、体がだるい。疲労感がへばりついている。ゆらゆらと蒲団から出て洗面所へ向かった。
自治会の役員は選挙で決まる。なかなか成り手がないので、旧役員がお願いして回る。うちの狙い目はワイフである。地域に深く根をおろしているので、適任だ。しかし、何度も何度もやっていては、本来の主旨に反する面も出てくる。それで、今回は、私の登場となった。二人三脚で担当することになる。
1時からの会議で、私は文化・広報部長となった。「自治会ニュース」の発行が主な仕事である。2年前の小学校PTAでの広報部長と似た役割である。小説家だから、と言うより、パソコンが使えるというのが大きいようだ。喫煙オッケーの会議は超苦手だが、パソコンを使った仕事なら平気だ(なんのこっちゃ)。現文化・広報部長から説明を受け、どうにかやれそうだと思った。
7時から、自治会の新組長を集めた会議があり、文化・広報部の5人も決まった。
会長が、3期目になる人で、だいぶ自治会の運営がスムーズに進むようになってきている。あとは、盛り上がりが課題だろう。できるだけ多くの人が自治会の役員や組長を経験していけば、地域のことに関心が高くなって、町は活性化する。
帰宅してから、カレンダーに自治会の関連行事を少し記入したが、・・・かなりの量である(絶句)。
3月28日(日)「読んでも読んでも本は増える・・・の風さん」
昨日の自治会の仕事でとられた時間を取り戻そうと、睡眠不足ながら早起きした。
しかし、ボーッとしていてはかどらない。
昼にワイフとランチを食べに出かけ、帰りに家電の量販店に寄って、デジカメの修理を依頼し、ついでにDVDビデオや電子辞書(以前のに比べて大幅グレードアップ)、USBメモリなどを買ってきた。帰宅してからは、1階と2階の物の交互移動(あのー、つまり1階の本を2階へ、2階のビデオカセットを1階へ移動)をした。これは、先週の片付けの続きである。
合間に、読みかけの本を読了した。大野優凛子さんの『京都・宇治 浮舟の殺人』である。かつて主人公を強姦した男を殺した男が殺された、というのが事件の始まり。犯人を捜査しながら、どうしても封印した自分の過去と向き合わねばならなくなり、自分と似た境遇の犯人像まで浮かび上がってきて、同情と刑事としての使命の間に葛藤が生じるのだが、やがて、トラウマを乗り越えて生きていけるように、主人公が成長していく。それを優しく見守るのが、相棒の刑事、ということで、なかなかドラマチックな筋立てである。
本と言えば、最近やたらとネット注文しているし、図書館から借りた本を片っ端からコピーしたりしている。それで、書斎の中が本の洪水になっていて、とうとう昨日、コピー機を1階の廊下へおろした。来週あたり、また本箱を購入して本を整理する予定である。それと、これからは、本の購入を少し抑え気味にしようかな、と(無理か)。しかし、数日前には辻真先先生から新刊が届いたし、今日も、大分県の教育委員会へ注文した本も届いた。これじゃ、いつか書斎の床が抜けるな。
3月29日(月)「ペットの栄枯盛衰・・・の風さん」
昨日の朝気が付いたのだが、金魚が1匹死んでいた。
うちで飼っている動物は、以前は昆虫類が多かった(ゴキは含まず)。
最近チーズ・カマ・ペコという雌猫を加えたので、やや賑やかになった。ペコのことを書くと、ちょっとややこしくなる。書きたいことというか、注文をつけたい、あるいは愚痴りたいことが山とある。とりあえず、ひとつだけ。走り方が品がない。パカパカと蹄のような音を立てて走る。後姿を眺めると、後ろ足がO脚である。メスなんだから、股を開いて走らないでもらいたい。
話が脱線した。
死んだ金魚は、子供らが金魚すくいで手に入れてきた3匹のうちの1匹で、これで残るは本当に1匹だけになってしまった。死因は不明で、口を開けて、その口がやや傷付いていた。ウロコはしっかりしていたので、病気ではなさそうだった。大きな水槽に一番大きかったヤツだけが、ゆったりと泳いでいる。ときおりペコが台に上がって、金魚鉢の中身をうかがう。そうはさせじと、フタの上に水の入ったペットボトルが2個も載っている。
3月30日(火)「ピンストライプが元祖ピンストライプに勝ったの巻」
開幕戦を日本でやろうと大リーグチームが来日していて、日本のプロ野球チームとオープン戦をした。
ビートたけしが言うところの、日本難民第1号の松井が所属するニューヨーク・ヤンキースと、阪神タイガースが戦った。史上初の出来事とのことで、タイガースがヤンキースに勝った。新聞の写真を見ると、ピンストライプの投手とピンストライプの打者が戦っていた。どちらもたて縞のユニホームなのである。こういう組み合わせに私はしびれる。そして、隠れ阪神ファンの私はしばし阪神の勝利に酔った。
今年、中日は落合が監督である。
落合と私は同年齢である。彼が秋田工業高校に通っている時、私は、同じ市内の秋田高校に通っていた。だからと言って、私たちは知り合いでもないし、私が偉いわけではない。彼が選手だったときから、私は彼のプロとしての姿勢に酔っていた。ふてぶてしさに惚れていた。引退する最後まで心の中で声援を送っていた。
・・・しかし、今年の中日が好成績を残すことはまずないだろう。監督が偉大な選手だった場合は、たいてい選手はついていけないものだから。
3月31日(水)「1年の4分の1が終わってしまう・・・の風さん」
とうとう一度も薬に頼ることなく、ましてつらい思いをすることもなく、今年春の花粉症シーズンを終えようとしている。ありがたいことだ。(その代わり、乾燥肌には悩んでいるが)
昨夜は信じられないような土砂降りの中、ミッシェルを飛ばして帰宅した。最後の花粉もすべて地上から洗い流されてしまったに違いない。
一夜明けた今日は、烈風である。それでも、会社のオフィスに飛び込んでしまえば、外界の荒天とは無関係となる。先週末から予定外のトラブルが発生することなく、会社生活を送ることができたので、仕事が少しはかどった。おかけで帰宅が早く、さあ執筆するぞ、と意気込んだのだが、そうは問屋が卸さない。たまった疲労がすぐに首をもたげて、私の意識を薄れさせる。それでも、あれこれと身辺整理をしながら、徐々に執筆態勢に入る準備を進めている。しかし、もう3月である。・・・ううっ、マズイ。
04年4月はここ
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